高級アイスクリーム市場の誕生

日本のプレミアムアイスクリーム市場の誕生

――1970年代に生まれた高級アイスクリーム市場の誕生と革命――

アイスクリーム評論家 アイスマン福留

1971年、日本に「高級アイスクリーム」という概念が誕生した。明治乳業が米国ボーデン社と提携して発売した「レディーボーデン」である。それから13年後の1984年、「ハーゲンダッツ」が上陸し、市場は「プレミアム」から「スーパープレミアム」へと進化を遂げる。そして1990年のアイスクリーム輸入自由化を経て、両者の明暗は決定的に分かれた。

この50年余りの攻防史は、単なるブランド競争ではない。日本人の食文化が「量」から「質」へと転換していく時代の縮図であり、流通革命とグローバル化が企業の命運を左右した物語である。近年、アイスクリームの単価が上がり、ポジションアップを遂げたアイスクリームのきっかけとなった高級アイスクリーム市場が生まれてから定着するまでを、その全貌を振り返りたい。

高級アイスクリーム市場の誕生

1971年(昭和46年)10月、明治乳業は米国ボーデン社との提携により「レディーボーデン」を発売した。商標出願は前年の1970年12月から準備されており、1972年には両社が折半出資で「明治ボーデン株式会社」(資本金3億6000万円)を設立している。

ボーデン社は1857年、ゲイル・ボーデンがニューヨークで創立した老舗乳業メーカーである。牛乳真空蒸発法(コンデンスミルクの製造方法)を発明したことから「近代乳業の父」と呼ばれ、レディーボーデンはその最上位アイスクリームブランドであった。激戦区アメリカでの競争を勝ち抜いてきただけあって、完成度は極めて高かった。

「アイスクリームの芸術品」の衝撃

発売時の価格は950ml入りで800〜950円。当時のアイスクリームが30円・50円・100円という低価格帯が主流だったことを考えると、まさに革命的な高価格設定であった。現在の貨幣価値に換算すれば約2,800円相当になる。子どもにとっては「特別な日のご褒美」として認識され、普段はなかなか買ってもらえない憧れの存在だった。

「アイスクリームの芸術品」というキャッチコピーが1970年代後半からテレビ・ラジオCMで使用され、容器には「FIT FOR A GOLDEN SPOON」(金のスプーンで食べるのがふさわしい)の文字が記されていた。CMのサウンドロゴ「レディ〜ボ〜デン♪」は、『ルパン三世』のテーマ音楽で知られる作曲家・大野雄二が手掛けている。そう、あの上品で心が揺さぶられるやさしい世界観は、ルパン三世愛のテーマに通じる世界観だったのだ。

品質へのこだわりと容器の秘密

レディーボーデンの強さは、単なる製造技術ではなかった。良い原料のみを使い、妥協せず最高のものを作るという姿勢にあった。当時の日本企業はなまじ器用であるがゆえに、生乳を使わずに粉乳で効率よく作る技術や、安定剤・乳化剤の機能を最大限に発揮させるノウハウを持っていた。しかしレディーボーデンの場合、ライセンスの関係で「良い原料を使う」という制約がかえって品質向上につながったのである。

象徴的だったのが容器である。レディーボーデンを特徴づけるあの容器は、米国シールライト社が特許を保有するもので、アメリカから輸入していた。蓋だけは日本語を印刷し、日本で製作するという徹底ぶりだった。落ち着いた茶色を基調に金色のラベルが配されたその基本デザインは、50年以上経った現在も基本的なコンセプトを維持している。

「ガリバー型寡占」の確立

レディーボーデンの市場支配は圧倒的だった。発売以来、高級アイスクリームの国内シェア7〜8割を占める「ガリバー型寡占」を維持してきた。昭和51年(1976年)のピーク時には売上高約90億円に達し、発売から7年後の昭和53年(1978年)には約115億円を記録している。

当時は一品で1億円売れればヒット商品と言われた時代である。115億円という数字がいかに驚異的だったか、想像に難くない。1990年(平成2年)時点でも約120億円、プレミアムアイス市場シェア約45%を維持していた。

「プレミアムアイスクリームといえば?」という問いに、消費者が真っ先に挙げるのがレディーボーデンだった。1979年から1989年まで女子プロゴルフの「JLPGAレディーボーデンカップ」のスポンサーを務めるなど、ブランド認知の向上にも余念がなかった。

巨人への挑戦者たち

レディーボーデンの牙城に最初に挑んだのは、業界トップの雪印乳業だった。1972年(昭和47年)、「フレーバーランド」を発売。高級と言われるからには、おいしいと評される香料を世界中から集めて厳選した。バニラはマダガスカル産、ストロベリーはアメリカ産、チョコレートはスイスのセミスイートチョコを使用し、ハイグレードな味を演出した。

しかし、昭和51年のピーク時でも売上は約35億円。レディーボーデンの90億円には遠く及ばなかった。当時の書物を読んだ際に一番興味深かったのは、雪印乳業の担当者がフレーバーランドのリニューアルを検討した際、レディーボーデンと実際に味覚テストを行ったところ、両者に有意差がなかったという事実である。

味に差がないのになぜ売れないのか。答えは流通にあった。レディーボーデンはお菓子屋、洋菓子店、百貨店、スーパーとどこに行っても置いてある。一方、フレーバーランドは取扱店舗率が低かった。先駆者の優位性は、単に「最初に出した」ということではなく、流通網の構築という点で決定的だったのである。

次々と散った挑戦者たち

森永乳業は1972年(昭和47年)、米国カーネーション社と提携して「カーネーション」を発売し、挑んだが敗退。続いて第2陣として「バリアンティ」を投入、さらに1973年には「ロマーナ」も発売したが、いずれも振るわなかった。

ロッテは「ジョアンナ」を発売。カネボウは「ピップエマ」で参戦した。カネボウは昭和40年代からアイス事業に参入しており、広告が非常にうまかった。1970年の大阪万博では果汁50%のシャーベット「BOB」が大人気を博した実績を持っていた。協同乳業は英国ライオンズ・メイド社と提携して「ライオンズ・メイド」を発売。協同乳業といえば、1955年に日本初の「アイスクリームバー」(後のホームランバー)を発売した先駆的企業である。

しかし、どのアイスもレディーボーデンの牙城に接近することすらままならない状態だった。1972年から1975年にかけて、レディーボーデンの成功を見た各社が次々とプレミアムアイスクリーム市場に参入したものの、「王者感」は揺るがなかった。

雪印の逆襲「リーベンデール」

業界トップの雪印乳業にとって、アイスクリーム分野で2位の座に甘んじることは屈辱以外の何物でもなかった。雪印のメンツにかけても、レディーボーデンに対抗しうる商品を作りたい――。フレーバーランドの敗北を受けて、まったく新しいものを作ろうと決断した。

1982年(昭和57年)3月、「リーベンデール」が発売された。商品名はドイツ語の「Liebender」に由来し、「愛する人」「恋をしている人」という意味を持つ。CMのキャッチフレーズは「愛する人に食べてほしい」であった。

コンセプトは「今までにない高品質の高級アイスクリーム」。北海道産の濃縮乳と生クリームを使用し、レディーボーデンと比較して「濃いめのミルク味ながらも後味がさっぱり」という差別化を図った。ターゲット層は20〜30代のヤングミセスと、アイスの楽しみ方にアイデア豊かなファミリー層に設定された。

容器にもこだわった。白地のポリエチレン樹脂をカプセル状に仕上げ、ブルーの文字で雪印カラーを演出。当時のアイスクリーム販売は夏が75%、冬が25%という季節偏重だった中、冬場にも売れる商品を目指した。

1992年には売上約50億円を達成し、「高級ホームタイプアイスのトップグループ商品」として日本食糧新聞の食品ヒット大賞を受賞している。レディーボーデンの牙城を崩すには至らなかったものの、雪印乳業の意地を見せた商品だった。

黒船来航――ハーゲンダッツの衝撃

1984年8月10日、ハーゲンダッツジャパン株式会社が東京に設立された。資本金4億6千万円、出資比率はHäagen-Dazs Nederland B.V.(ゼネラル・ミルズのオランダ法人)が50%、サントリーホールディングスが40%、タカナシ乳業(高梨乳業)が10%という構成であった。

パートナー選定には明確な戦略があった。当時の日本はアイスクリームを含む乳製品に輸入数量制限を課しており、海外からの完成品輸入は事実上不可能だった。国内生産体制の構築が必須条件だったのである。

タカナシ乳業は北海道釧路地方・浜中町の高品質生乳の調達能力と群馬県高崎市の生産拠点を提供した。サントリーは高級ブランドの販売・マーケティングノウハウと国内流通ネットワークを担った。製造と販売の役割分担が、ハーゲンダッツの日本での成功を支える基盤となった。

青山1号店と「行列ブームの先駆け」

1984年10月、まず首都圏のデパート・高級スーパーマーケットでパイント(473ml)の販売を開始。続く11月、東京都港区青山のキラー通り沿いに国内1号店「ハーゲンダッツショップ 青山店」がオープンした。赤と白を基調とした店内では、日本市場にはなかったフレーバーをコーンやパフェで提供した。

開店直後からの反響は予想を超えるものだった。連日ニュースで取り上げられるほどの長蛇の列ができ、後に「行列ブームの先駆け」と評されるほどの社会現象となった。このブームでは遠方からタクシーで乗り付けて、入手するために30分でも1時間でも並ぶという感じだった。

翌1985年には日本市場向けに独自開発されたミニカップ(120ml、現在は110ml)を発売。「コーヒー1杯程度」の価格で購入できる手軽さが、高級アイスクリームへの参入障壁を大きく下げた。直営店舗はその後も拡大を続け、1985年に横浜・原宿・大阪・神戸・京都、1986年に中京地区、1987年に札幌・仙台・広島・福岡へと展開。1994年4月には全国95店舗というピークを迎えた。

「スーパープレミアムアイスクリーム」という新カテゴリー

ハーゲンダッツが持ち込んだのは、「スーパープレミアムアイスクリーム」という新しいカテゴリーだった。日本の法令では「アイスクリーム」の定義は乳固形分15.0%以上・乳脂肪分8.0%以上とされているが、業界では品質によってさらに細かい区分が存在する。

プレミアムアイスクリームは正確な定義はないものの、当時の概念としては乳脂肪分12〜14%、オーバーラン(空気含有率)60〜80%で、乳化剤・安定剤は極力抑えるといった感じだった。これに対してスーパープレミアムは乳脂肪分15〜16%、オーバーラン20〜40%で、こだわった天然素材のみを使用する。ハーゲンダッツのバニラは乳脂肪分約15〜17%で、アイスクリーム規格の法的基準(8%)の約2倍に達する。

植物油脂を一切使用せず純粋な乳脂肪のみを使用し、乳化剤や安定剤を使用しない。オーバーランを低く抑えることで、濃厚で溶けにくい食感を実現した。北海道浜中町産の生乳、マダガスカル産バニラビーンズ、遮光室での石臼挽き抹茶、手摘みイチゴといった素材へのこだわりは、まさにDedicated to Perfection“完璧を⽬指す”という同社のブランド哲学のもと、いままで存在した「プレミアムアイスクリーム」とは明確に異なる価値を提示するものだった。

レディーボーデンとの決定的な違い

レディーボーデンは乳脂肪分約14%のプレミアムアイスクリームとして、950mlの大型パイント容器で家族がシェアする「ファミリー型」消費が特徴だった。ハーゲンダッツは、この既存のプレミアム市場とは異なる土俵で勝負した。

より高い乳脂肪分、よりシンプルな原材料、そして「大人の1人分」という個食サイズのミニカップ。「家族で分ける贅沢品」から「自分へのご褒美」へ――高級アイスの概念そのものを変えたのである。2024年のハーゲンダッツジャパン担当者によれば、「1984年に日本で販売開始してから10年で、スーパープレミアムアイスクリーム市場という新たな市場を創造し、業界におけるパイオニアとしての地位を確立した」という。

1990年、運命の分岐点

アイスクリームの輸入が自由化されたのは1990年(平成2年)である。この自由化の背景には、日米貿易摩擦とGATT(関税及び貿易に関する一般協定)体制下での国際交渉があった。

アイスクリーム輸入自由化の背景

1980年代、日本は対米貿易で巨額の黒字を計上し、米国から農産物市場開放の強い圧力を受けていた。1986年、米国は日本の農産物12品目の輸入数量制限がGATT違反だとして提訴。1988年2月2日、GATTパネルは10品目についてGATT違反と裁定し、日本に輸入自由化を勧告した。

興味深いことに、アイスクリームの自由化は「代償措置」として実現した。GATTで違反と判断された10品目のうち、でんぷんと粉乳・練乳の2品目は自由化を留保し、その代償としてアイスクリームやフローズンヨーグルトなどの乳製品が自由化対象となったのである。

ハーゲンダッツのコンビニ戦略

1990年の輸入自由化は、ハーゲンダッツの販売戦略を根本から変えた。パイント、ガロンなど大型品を輸入に切り替え、アイスバーの輸入も開始。そして決定的だったのが、コンビニエンスストアでの販売開始である。

それまで百貨店や直営ショップでしか購入できなかった「特別な体験」が、急速に店舗数を増やしていたコンビニで気軽に手に入るようになった。消費者との距離が縮まり、「自分へのご褒美」としてのプレミアムアイス消費が日常に浸透していった。1989年には自動販売機での販売も開始している。時代に合わせて販売スタイルを小売の路線に舵をきったことが、ハーゲンダッツとして一番の成功の要因となった。

レディーボーデン、明治乳業とのライセンス契約を解消

レディーボーデンの運命は、皮肉にも輸入自由化の年に暗転した。1990年7月、ボーデン社は日本法人ボーデン・ジャパンを設立し、明治乳業とのライセンス契約を解消。レディーボーデンは一時、日本市場から姿を消した。同年9月、明治乳業は独自ブランド「彩 AYA」を発売して対応した。

1991年、ボーデン・ジャパンは「レディーボーデン・クラシック」で再参入。同年11月25日にはハーゲンダッツに対抗するミニカップ「レディーボーデン・ホームメイド」を発売した。しかし、撤退した1年間でハーゲンダッツはコンビニでのプレミアムアイスクリームとしての地位を確立してしまっていた。

1992〜1993年、コンビニ等小売店との取引条件交渉で苦戦し、売上は低迷。この時期のレディーボーデンの売上は約40億円にまで落ち込んだ。1994年、ロッテとライセンス生産契約を結び、ボーデン・ジャパンは清算された。

決定的だったのは、パイント中心からミニカップへの対応の遅れ、そして販路戦略の失敗である。現在、レディーボーデンはスーパーマーケットでは販売されているものの、コンビニではほぼ見られない状態にある。かつての王者の凋落を決定づけた分岐点が、1990年だったのである。

バブル期のグルメブームとアイス市場

1986年から1991年のバブル経済期は、グルメブームと高級志向が全盛を極めた時代だった。1983年に連載開始した漫画『美味しんぼ』に象徴されるように、食への関心が高まり、「大人のデザート」としてのアイスクリームという新しい消費文化が定着した。

日本のアイスクリーム市場は急成長を遂げた。1966年(昭和41年)の統計開始時に約510億円だった市場規模は、1973年に1,000億円を突破、1978年に2,000億円、ハーゲンダッツ参入の1984年には3,000億円を突破した。そして記録的猛暑だった1994年には4,296億円(販売物量967,570kL)という過去最高を記録する。

この記録は約20年間破られず、2013年に4,330億円でようやく更新された。2024年には6,451億円(前年比106.1%)という過去最高を記録している。

海外ブランドの明暗

ハーゲンダッツの成功に追随すべく、他の海外ブランドも日本市場に参入した。個人的に印象的だったのが、2005年(平成17年)11月3日、-9度の大理石の上で、アイスクリームとトッピングを混ぜるエンターテイメント型のアイスクリームショップ「COLD STONE CREAMERY」が初の米国外進出第1号店舗として日本に進出。そのほか、代表的なのがベン&ジェリーズ(ユニリーバ傘下)である。2012年4月14日に表参道ヒルズに日本1号店をオープンし、2017年までに30〜50店舗という野心的な計画を掲げた。

しかし期待された展開は実現しなかった。店舗数は伸び悩み、2020年1月13日、国内唯一となっていた「ららぽーと豊洲店」が閉店。同年3月には赤城乳業に国内販売委託をしていたミニカップも終了し、日本事業から完全撤退した。撤退理由は「米国本社の基準に見合う原材料の調達の目途が立たなかったため」とされる。

一方、アイスクリームパーラー業態ではサーティワン(1973年日本上陸)が成功を収め、2010年に1,000店舗を達成。現在もその規模を維持している。リーベンデールは2000年の雪印集団食中毒事件後、アイスクリーム事業がロッテとの合弁会社「ロッテスノー」へ移管され、現在、市販用は生産終了、業務用のみロッテから販売されている。

ハーゲンダッツの価格維持戦略

ハーゲンダッツのブランド戦略で特筆すべきは、値引きを行わずブランド価値を維持する姿勢である。コンビニでは定価販売を貫き、スーパーでも大幅な割引は行わない。この徹底ぶりは、1997年に公正取引委員会から勧告を受けるほどだったが、結果として「高くても価値がある」というブランドイメージは揺るがなかった。

2013年4月25日、最後の直営店「新浦安店」が閉店し、ショップ事業を終了した。テレビ番組でアイスクリーム評論家としてのインタビューコメントを受けたので今でも記憶に残っている。しかしこれはブランドとしての敗北ではなく、コンビニ・スーパーという日常チャネルへの完全シフトを意味していた。現在、ハーゲンダッツジャパンの年間売上は500億円以上に達し、2024年には国内過去最高売上を記録している。プレミアムアイスクリーム市場での純粋想起率は30〜50%台という圧倒的な認知を維持している。

「量より質」の時代を切り拓いて

高級アイスクリーム市場が台頭した背景には、複数の社会経済的要因があった。第一に、高度経済成長による所得増加で贅沢品への支出余力が生まれた。第二に、家庭用冷凍庫付き2ドア冷蔵庫の普及により、大容量アイスを家庭で保存できる環境が整った。第三に、欧米文化への憧れが強く、アメリカンライフスタイルの象徴としてアイスクリームが位置づけられた。

海外ブランドとの提携ブームも同様の文脈で理解できる。技術・ノウハウの導入だけでなく、「アメリカのボーデン社」「イギリスのライオンズ・メイド社」といった舶来ブランドの付加価値が、国内競合との差別化要因として機能した。

ハーゲンダッツの日本市場参入は、アイスクリーム業界に3つの革命をもたらした。第一に、ターゲットの転換。「子どものおやつ」から「大人の贅沢」へと消費者像を再定義し、高価格帯市場を創出した。第二に、商品形態の革新。家族シェア型のパイントから個食型のミニカップへと転換し、「自分へのご褒美」という新しい消費シーンを開拓した。第三に、販売チャネルの刷新。1990年の輸入自由化を好機とし、急成長するコンビニを主戦場とする販路戦略を確立した。

レディーボーデンの凋落とハーゲンダッツの台頭という明暗は、同じ市場環境の変化に対する戦略的対応の差が生んだ結果だった。レディーボーデンが「アイスクリームの芸術品」として高級市場を創造し、ハーゲンダッツが「スーパープレミアム」という新次元に引き上げた。現在は、ロッテがレディーボーデンのブランドを再構築し、育てているので今後どのように日本市場に浸透していくのかが非常に楽しみである。

この50年の高級アイスクリーム市場の攻防は、まさに「量より質」へと嗜好が変化した日本の食文化史そのものである。そして今、日本では「冬アイス」という新たな市場を切り拓く挑戦が続いている。2016年には11月15日が「冬アイスの日」に制定され、季節を問わないアイスクリーム文化の定着が期待されている。冬のアイスクリーム市場を切り開いたレディーボーデンのヒットから現在の冬アイスブームまで——その歩みは、50年の歴史の延長線上にある。

アイスクリームは、もはや夏だけの食べ物ではない。暖房の効いた部屋で味わう冬のアイスには、夏とは違った格別の美味しさがある。レディーボーデンが切り拓き、ハーゲンダッツが進化させた「高級アイスクリーム」という文化を、次の50年へとつないでいきたい。

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