トラック運転手が起業、いつの間にかアイス評論家になっていた話。

※2013年に「STORYS.JP」にて公開されたの記事。

そこそこ反響があったのでここにも掲載(追記あり)しておきます。

アイスを語ること、それが僕のしごとです。

「アイス評論家」は、僕が自分で勝手に名乗り、つくった職業。「評論家」になるのに資格は必要無いので言ったもの勝ちなのだ。まさか50歳にもなって、こんなことをしているなんて思わなかった。今は〇〇マニアが世に溢れていますが、僕がはじめた当時はSNSなども普及していなかったため、それっぽい人は少なかったと記憶しています。とくにアイスの専門家など周りを見渡してもいないので、わからないことばかり。しかし裏を返せば自分が取り組んでいることが「スタンダード」になるという楽しさも。

ところであんた誰?

そうですよね。きっと、僕のことを知らない人がほとんどだと思うので少し自己紹介を。

コンビニアイス評論家」という肩書で活動をしている ”アイスマン福留” と申します。

■web:コンビニアイスマニア (このサイト)
■twitter:@iceman_ax

「アイスを食べる職・人=アイスマン」と定義をして、名乗っています。1973年生まれ。生まれも育ちも東京の足立区。生粋の足立区民です。年間約1,000個以上のアイスを食べて、レビュー(感想)を書いたり、メディアで紹介したり、研究をしたりしています。コンビニアイスの情報サイト『コンビニアイスマニア』を2010年から運営。2014年、一般社団法人日本アイスマニア協会を設立、代表理事に就任。2015年からは、アイスクリーム万博「あいぱく」をスタート。最近はありがたいことにメディア出演をはじめ、アイスメーカーさんとのお仕事なども増えてきました。

アイス評論家は夏忙しく冬は超ヒマ。


アイス評論家。
これ、趣味でも副業でもなく、本業です。仕事のオファーは暑い夏の時期に集中する。活動期間は「セミ」やミュージシャンの「T○BE」と一緒。夏だけ開店する「海の家」…のような感じかな。

最近は「冬もアイスを食べるよ!」って人もずいぶん増えて来たけど…マダマダ!!4月~9月ぐらいの時期だけが異常に忙しい。二毛作的に、「おでん」や「鍋」の評論家とかをやった方がいいのかな?いやいや、僕は元々そんなに器用な人間ではない。おそらくきっと、この先もアイス一筋で生きていくでしょう。人のタイプは様々。器用なタイプの人は色んなことをやればいいけど、不器用な僕には、ひとつのことに専念するほうが楽だし向いている。

忍耐力が無く、何をやっても続かない

アイス評論家の活動をはじめたのは2010年。ちょうど、赤城乳業の「本庄千本さくら『5S』工場」が完成した時期。

えーと、僕が37歳。今から13年ほど前のこと。

今までの職歴

では、それまではどんな職業をやってきたのか…。若い頃は何をやっても仕事が続かず、色んな職を転々としていた。

東京都内の工業高校(電気科)を卒業し、就職した会社は、都市型レジャー・アミューズメント事業などを展開している会社だった。僕は六本木の台湾レストラン&バーに従業員として配属された。昼夜逆転の日々、勤務は夕方から翌朝まで。しかし、社会の厳しさにすぐに挫折。社会人経験のないヘタレな僕は、たった3ヶ月で退職した。その後、何をやっても続かずに転職を繰り返すことになる。配達業(駅の売店に飲料を運ぶ)、倉庫作業員(フォークリフトで荷物の積み込み)、ビル清掃、トラック運転手(ルート配送・長距離)など。

それ以外にもフリーターの期間が長く、引越し業者や警備の仕事、ファーストフード、ガソリンスタンド、印刷会社など、たくさんのアルバイトを経験した。時には仕事が辛くて1日もたず、昼休みに逃げ出して帰ったこともあった。

働いて稼いだお金は競馬

土日は場外馬券場へ。もちろん東京競馬場や中山競馬場にも通っていた。この頃はナリタブライアン全盛期の頃なので1994年頃。

1994年と言えば、記録的超猛暑でアイスクリームの年間販売額が4296億円の最高を記録した年だった。

これからはITだ!

色々な職種を経験した中で、ひとりの時間(運転している時間)が長いトラック運転手が比較的自分の性に合っていたためか、数年間職業として安定した。(それでも何度も積荷を忘れてナン十キロも走ってしまうというミスも多発した)DC/DCコンバーターを使い設置したトラックのカーステレオで当時お気に入りだった尾崎豊を聴きながらしっとり走る夜の東名高速は格別だった。

運転手を続いているうちに、不思議に自然と山川豊や石川さゆりなどの演歌を聞くようになる。(これって職業柄なのかな)あと、静岡の浜松方面に行くことが多く、トラックドライバー御用達の日の出食堂(だったかな?)で食べたり、気ままな運転手ライフを過ごしていた。

25歳、勢いでマンションを購入

1998年、運送屋に勤めて数年、衝動的に分譲マンションを購入。25歳のトラック運転手にとって、3,000万円は大きな買い物だ。しかし、35年ローンの重さや金利など損得など何も考えず、新しい服でも買うかのように気軽にローンを組んだ。筋金入りの情報弱者だが、バカのメンタルは最強なのだ。

でも若くして住宅ローンを組むと周りは口を揃えて「若いのに偉いねぇ。」って言うんだよね。あれは不思議!(笑)実際無計画で多額の借金を背負っただけなのに…。この頃ちょうど、赤城乳業の「みかんちょ」が改名!「ガツンとみかん」が誕生。そして翌年あたりから、大容量のカップアイス大競争時代に突入。

毎日、銭湯

昔から、ひとりの時間が好きだった。両親が3歳の頃に離婚したため、僕は父子家庭で育った。いわゆる「鍵っ子」だった。父と兄と僕の3人暮らし。足立区梅島にある父の職場の風呂なしの寮に住んでいたので近所の銭湯に毎日通っていた。

この銭湯の後に飲むコーヒー牛乳、パンピー、りんごジュース、マミーなどが、ものすごく楽しみだったのを今でも憶えている。あ、もちろんアイスも。「バニラエイト」とか好きでよく食べていた。今考えると、この頃に味わった『THE・昭和』の甘酸っぱい経験が今の活動に活きている。とても狭い世界だったが、とっても幸せな日々だった。ああ、本当に家に風呂がなくてよかった(違うか笑)

父は男手ひとつで僕と兄を一生懸命育ててくれたんだなぁ…と今では深く感謝している。ありがとね!

華やかな80年代

そして、小学校に入学したのが西暦1981年(僕は7歳)、ちょうど赤城乳業の「ガリガリ君」やロッテの「雪見だいふく」が登場した頃だ。あと、森永乳業の「クリスピーナ」や井村屋の「パインアイス」などもこの頃に登場している。この頃は「なめ猫免許」が大流行。「8時だよ!全員集合」の宿敵番組「ひょうきん族」もはじまった。

家庭の都合で転校

入学してまもなく家庭の都合で転校することになった。子供にとって「転校生」とは、いろんな意味で“ちょっとした特別な存在”なんだと思う。「おまえ足はやい?」「頭いいの?」などの質問を浴びせられる。そんな経験のせいなのか、なんだか大人になった今でも、どこにいても常に「アウェー感」を感じている。

ひとりの時間が好き

もちろん学校の友人と遊ぶのも楽しい。しかし、ひとりでいる時間のほうが断然好きだった。友人から遊びに誘われても「用事があるんだ 」と嘘をついて、ひとりで公園で日が暮れるまで「アリ」を掘っていた。自分の時間を大切にするあまり秘密主義者のイメージが付き、いつの日か友達に「ソビエト連邦」というあだ名が付けられた。採ってきたきたアリをケージに入れ黒い紙で覆い、完成した巣を眺めているのが楽しかった。学校の勉強はまるっきりできないけど「昆虫」には詳しく「虫博士」と呼ばれた。興味のあるもののみに対して時間をかけて探求していく資質は、今の自分の仕事(アイス探求)にマッチしている。

つまらない人間

大人になった今の自分は、お酒も飲めないし、ゴルフもやらない。プライベートで人と会うことはほとんどなく睡眠時間は12時間くらい。起きている時間はスマホをいじったりアイスの情報と向き合う。まぁ、つまらない人間だ。情報発信をするのは好きなんだけど、SNS上でのコミュニケーションはあまり得意ではない。今も幼い頃とあまり変わっていない。

今まで誰もやったことのない動き

そうそう、その他にも「今まで誰もやったことのない動きごっこ」なども楽しんだ。ひとりで部屋の中で “奇声をあげながら手足をぐちゃぐちゃに絡めて人類がはじまって以来きっと誰もやったことが無いであろうという変な動き”を実行する。--すると突然・・・部屋の隅に未知の異次元空間に続く扉が現れる。

そんなことを妄想をする「ひとり遊び」をよくしていた。何を言っているのかよくわからないと思うが、とにかく “他人と違うこと” をやること以外で新しい扉を開ける方法はないということだけはわかっていた。興味があれば、僕の著書『バカが武器(扶桑社)』を読んでいただきたい。

--おっと、思いっきり話がそれてしまったので、ここで戻そう。

運命の出会い

当時僕は、トラック運転手として小さな運送会社に勤めていた。ある日、たまたま立ち寄ったコンビニエンスストアで「ダカーポ」(2000年8月2日号)という雑誌が目に飛び込んできた。その表紙にはこう書かれていた。

「パソコン力で年収に差がつく!!IT時代の感性の磨き方!」

・・・パソコンで年収に差がつく?IT時代?その雑誌を手に取り、ペラペラとめくってみると、“PCスキルを武器に、ビジネスチャンスをつかみとろう!”という見出しと共に、ITでバリバリと稼いでいる人たちが事例として紹介されていた。なかでも特に気になったのは”PCスキルで起業したネットベンチャーの雄” オン・ザ・エッヂ 代表取締役 堀江貴文(当時27歳)そう、ホリエモンだ!この記事の中で「一番稼げるのはプログラムを組める人。それだけでも十分な収入が得られるよ。」というコメントとともに、起業のきっかけや現在の会社の状況などが書かれていた。その記事を見た瞬間、胸が熱くなり無駄に興奮した。(10数年後に、まさか自分が堀江さんが創業したビルに入り、一緒に動画番組で共演できるなんてまったく予想していなかった)

人生を変えたい

真に受け力が強かった僕は、「これからはITだぁ!!!パソコンで自分の人生は大きく変わる!」と、すぐにその場で「ダカーポ」を購入。ついでに近所のコジマデンキに走り、NECのVALUESTARというPCを購入した。

求職情報誌も今まで愛読していた「ガテン」を捨て「B-ing」に切り替えた。

しかし、人の “思い込み” というものは恐ろしい。もう、この時点で人生が180°変わった……気分になっていた。すでにパソコンを覚えてバリバリと稼いでいるカッコいい自分の姿をイメージし、興奮状態だった。今思えばこの一冊の雑誌「ダカーポ」が僕の人生を狂わせた。いや、この“きっかけ”が無かったら、きっと僕は今でもトラックに乗り続けていただろう。大きな失敗もなく、少なくても今よりもずっと平坦で穏やかな人生を歩んでいたと思う。なんとか食べていける、生ぬるい人生・・・それも悪くはない。しかし自分にはきっと合わなかっただろう。

バカは考える前に勢いよく行動する。

もうすでに僕の頭の中では自分が超高速でキーボードを叩くデキるIT青年になっていた。(キーボードを叩いてもデキる人間ではないよ)

無知って怖い。

でも、何も知らないから行動できることもある。「到底無理そうなこと」だったとしても、自分の強い思い込みによって、うっかりクリアできてしまうこともある。人生に「規則性」は無いので、思い込みひとつで行動したことで人生が(良くも悪くも)激変してしまう可能性は大いにありうるのだ。

パソコンもできないのに転職活動開始!

パソコン未経験、トラック運転手の転職活動がはじまった。自分自身パソコンを使って何をやるのかもさっぱり理解していなかったので職種は当時一番募集が多かったPG(プログラマ)・SE(システムエンジニア)に簡単に決定した。そう、ダカーポの記事でもホリエモンはこう言っていたじゃないか。「今の時代、一番稼げるのはプログラムを組める人。それだけでも十分な収入が得られるよ」と。いろんな会社に何度も面接に行ったが、やはりなかなか採用はしてもらえない。それもそのはず。30歳近いパソコン未経験者がプログラマ・SEの職種に応募しているのは側からみたら “狂気の沙汰” としか思えないだろう。“プログラミング未経験者” でなく、“パソコン未経験者” なのだから。そんなことはお構いなし。とにかく“未経験可”という文字を拾っては、片っ端からしらみ潰しに探して面接を受けにいった。

作業着で面接を受けにいく

最初のうちは作業着に安全靴を履いた恰好で面接に行っていたが、経験を重ね「どうやら面接にはスーツがふさわしいらしい。」と気づいていった。(それほど常識が欠如していた)面接で落とされても何度も向かう。そう、まるでゾンビのように。落とされたらその企業に電話をかけて「なんで落ちたんでしょうか?」と聞く。すると「君ね、不採用の理由は普通聞かないものだよ。そういう常識のないところでは?」と一蹴された。ほほう・・・とても勉強になる。そうこうしているうちに面接が楽しくなり“趣味化”していった。

面接のやり取りはこんな感じ

実際の面接はこんな調子だった。

福留くん、君はプログラミングの経験はあるの?

いえ、ありません。“未経験可”って書いてあったもので…

あれは「プログラミング未経験」という意味で「パソコン未経験」ということではないんだよ。

あ。なるほど・・・。

ちなみに今君が使っているパソコンのOSは?(完全に試されている)

OS?(なにそれ)えーと…今はわからないので、あとで調べて折り返しご連絡します!

いや結構です…。

・・・・

こんな感じ。地獄のやり取りだ。受かるはずもない。完全に就職(転職)活動というものをなめていた。面接官が僕と話した時のなんとも言えないがっかりした表情は今でも忘れられない。実際「時間の無駄だ!(こっちも忙しいなか時間をつくっているのだから、いい加減にしてくれ)」と、怒られて帰されたこともあった。企業側からしてみたら僕を採用してもメリットどころかリスクにしかならないもんね。そして、どのくらい面接を受けたか…忘れてしまったが、“下手な鉄砲数打ちゃ当たる”的な感じで、千代田区にあるIT企業にうっかり入社が決まってしまった。(企業の名誉のため、社名は伏せます。)当時、(西暦2000年頃)はシステム開発の現場はとにかく人材不足。

1999年から2000年に切り替わるタイミング。いわゆる「2000年問題」の時期だ。どこも、とにかく人が足りない!という状態だった。僕はそのタイミングで大手金融機関のシステム開発のプロジェクトに(どさくさ紛れに)加わった。「運送屋」「倉庫」などでガテン系の仕事しかしてこなかった僕が、プログラマ・SE職の要員として開発現場に紛れ込んだのだ。まぁ、その後がどれだけ大変だったか……。

(システム開発のチームメンバーと。顔は隠してます)この辺を書くと、とにかくエンドレスになるので省きます。ご興味のある方は、僕の著書「バカが武器」を読んでください。

(※こちらはアイスマン福留ではなく、ビジネスネームのジョーカー福留での著書。)

その後、4~5年間程勤めて(よく続いたな…)、まずは自分がプログラマ・SEという職にはまったく向いていないことと、当初考えていたイメージのように(雑誌で見たホリエモンのように)稼げていないことに気づき(最後までスキルは上がらず、ただの給料泥棒だった)会社を辞めた。ここでまた「ポジティブという名の病」が発動し、独立をして起業することにした。

Web制作で独立!でも商売というものがわからない。

最初は、ガイアックス系無料HP レンタルサービスを利用してホームページを開設。掲示板付の超自己満足的なWEBサイトで訪問者と交流するのが楽しくて遊んでいた。それから少しずつのめり込み、副業(週末起業)でWeb制作をはじめた。教育訓練給付金制度を使って、新宿にあった「あとらす21」のWebクリエイター養成講座(現:ナガセwebスクール)に通った。「Photoshop」「Illustrator」はもちろん、どうやらプロの制作者は「ホームページビルダー」ではなく、「Dreamweaver」「Fireworks」を使うらしいということで片っ端から学んでいく。しかし独立するためには制作スキルやツールの使い方だけではなく、“商売のやり方”を知る必要があった。

Web制作で独立している人に会いに行く

ビジネスは「師匠」がいたほうがスキルアップできると思いネットで検索したところ、実際にweb制作のフリーランスとして活動している人を見つけた。その人は、ノーブルウェブの松原伸禎さんという方。高円寺で地域密着で地域サイトの運営をしつつweb制作を行っていた。サイトには、“外部スタッフ募集”と書かれていたので、すぐに連絡をしたところすぐに会ってくれた。

松原さんは、副業の仕方などを丁寧に教えてくれて仕事もくれた。FFFTPの使い方(懐かしい!笑)の使い方、その他に名刺の作り方、見積書や請求書のフォーマットなど独立するために用意すべきものを全部教えてくれた。打ち合わせにも一緒に参加させてくれたり、たくさんの実績を作らせてくれた。僕にとっては師匠であり大恩人だ。

いよいよ独立!

2005年、独立をして、自宅でWeb制作をはじめる。この年、森永乳業から「PARM(パルム)」、赤城乳業からは、現在の旨ミルクの前身となる「旨チョコミルク」が発売された。当時、web制作=mac!といったイメージだった(通ったwebスクールもすべてmacを使っていた)なので何となく中古の iMac G3 を購入した。

(当時は、Web系のソフトはmacの方が多かった)

かめれおん工房という屋号でWeb制作をはじめた。事務所など借りるお金も無いので自宅の一室を事務所代わりにはじめる。1年半ほどフリーランスとして活動し、その後web制作会社を設立。地元の足立区に事務所を構え、銀行で目一杯お金を借入し、スタッフを集め、5~6名で企業向けのホームページを作りまくった。最初の頃は良かったものの、経営者としての力量が圧倒的に足りず、経営はうまくいかず借金まみれ、クレジットカードもすべて止められ、事業は縮小、とうとう車や自宅もすべて売却することになってしまった。落ちこぼれが独立をしたところで、やはり落ちこぼれなのだ。あらためて自分と向き合ってみると、まず数字がものすごく苦手で要領も悪い。さらに頭も桁外れに悪い、人と競争するのも嫌い・・・あれ?自分は経営者に向いていないのかも。と今更気がついた。(完全に手遅れ)

今考えてみると、当然の結果だ。すべてが無計画過ぎた。そう、バカは深く考えずに行動して壁にぶつかり血を流さないとわからないのだ。僕は壁にぶつかり過ぎて血だるま状態になっていた。「色々ちがう…。」それが知れたことが一番の収穫だった。(代償は大き過ぎたけど)とにかく「経営者」として自分はやっていけない。でも、“くだらないこと”や、自分がおもしろいと思えることを考えることだったら、結構いい線いけるかも。そう思いたち、会社のコンセプトを変え、本来の資質が活かせる “バカ路線” に舵を切った。社名も株式会社カメレオンから変態企業カメレオンへ。ほとんどヤケクソだ。ちょうどビジネス誌に『進化する変態企業 変われない会社は2年で滅ぶ』と表紙にカメレオンが描かれていることを知り、いただくことに。

“カメレオンのように、時代の背景に合わせて変態し続ける企業”。そうこじつけた。企業理念は “究極の自己満足ー僕らあってのあなたです。”

以前から、パートナーと一緒にWeb販売の協力をしていた「山吹色のお菓子」を軸に、ちょっと変わった商品の物販事業をはじめた。「妄想ライセンス」「成功のみかん箱」「大人銀行券」と言った、世の中からまったく求められていない何の役にも立たないくだらない商品をどんどんリリースしていった。

妄想ライセンス:巨大ロボ操縦免許証[直接操作型])

成功のみかん箱

「成功のみかん箱」は、本田技研工業の創業者・本田宗一郎氏やソフトバンクの孫正義社長など、成功したビジネスパーソンが演台として使った「みかん箱」をイメージして作った昔懐かしい木製のみかん箱を現代に復活させたもの。価格は52,500円。「高けぇ!」と言われた時に、「え?成功するのに5万円って高いの?」と言い返せる優れものだ。

2014年、当時のホンダの社長であった伊東孝紳氏が実際に記念式典で「みかん箱」を使ってくれた。笑

成功のみかん箱

さらに、日本を代表する先進バカ企業が集うイベント「青春!バカサミット」というイベントを企画して開催。“いつの時代も歴史を大きく動かすのは誰のいうことも聞かない大バカもの”

開催理由は、春だから。対象は、ヒマな人。登壇者はみな、“道なき道をゆく大バカもの”。やさしくて素晴らしい人たちばかりだ。

大震災直後にバカイベントを開催

記念すべき第1回目は、東日本大震災直後ということで、多くのイベントは自粛ムードとなり中止されました。何をやっても不謹慎だと叩かれる時期にも関わらず、これはバカの役割だと自分に言い聞かせて開催。

今までイベントをやったことがなかったので、運営進行はひどいものだった。しかし、ニュースにはたくさん取り上げられた。

日本を代表するバカ企業が集まるサミット、遂に3回目が開催される(青春!バカサミット3より)

しかし、このイベントを通じて本当におもしろい人たちと知り合うことができた。メディアなどでたくさん取り上げられ、商品やイベントの注目度は高まったものの、会社を持ち直すためにはまだまだ道のりは長かった。そんな時知り合ったのが「こんな僕でも社長になれた」の著者、家入一真さん。家入さんはロリポップサーバーを提供している株式会社paperboy&co.の創業者で、引きこもりから起業をして29歳の時にジャスダック市場へ最年少で上場、その後カフェ事業や投資事業などを行いながら、新しい生き方、働き方を提案するLivertyを設立、自身は連続起業家として多くのサービスを立ち上げている。都知事選に出馬するなど、既存の常識にとらわれないスタイルで今なおドラマティックな人生を歩んでいる。(※追記:現在はクラウドファンディング・プラットフォーム「CAMPFIRE」を運営する株式会社CAMPFIREの代表を務めています)

(赤城乳業 ガリガリ君 リッチ コーンポタージュ味を食べる家入さん)

家入さんに、今の会社(カメレオン)の状況を話したところ、笑いながら「カメレオンおもしろいから出資するよ!」と、軽い感じで会社を維持していく資金と、環境を用意してくれた。(それも事業計画書など一切見ずに…)そして、その環境には、IT業界では著名な人たちがウジャウジャいる。さらに引っ越した先は、なんとホリエモンが創業当時にオフィスを構えていたビル(柳ビル)じゃないですか。

家入さんはネットではよく炎上してる(※この記事を執筆した当時は炎上ばかりしていた)けど、とってもやさしい「愛の人」。まぁ、その辺は周りの人はみんなわかっていることなんですが。

「正義」はもちろん大事ですが、まだ正義と確定していないものが世の中にはたくさんある。間違ったとしても新たなことに挑戦し、世の中にインパクトを与えることができる人が社会には必要だ。そんな意味で、家入さんの破天荒なところが(だらしなさも含め)僕は好きだ。結局、“その人が正しい事を言っているかどうか”よりも、“その人が好きかどうか”ということを大事にしたい。そんな家入さんとの出会いを境に、自分の人生はまた大きく変わっていった。

アイス評論家になる

“バカ路線”に路線変更した頃に、同時にはじめたのが「コンビニアイス評論家」だ。色々と失敗を繰り返し、頭が悪いなりに「自分が本当にやりたいこと」「自分にしかできないこと」を以前よりも少しだけ真剣に考えるようになった。

アイス評論家をはじめるきっかけ

無料のwebテンプレート(wordpressのテーマ)をたまたま見つけ、これを使って「何かの情報」を発信をしてみようと決意。そうだ!以前から大好きだったアイスクリームの情報にしよう。ラーメンのように「食べ歩く」のはめんどくさいので、近所で買える「コンビニアイス」を題材にすることにした。

ところが・・・。最初は楽しんでやっていたものの、3ヶ月程で飽きてしまいサイトの更新はぴたりと止まった。その数ヵ月後のある日、某電話会社から「うちのサイトで○○マニアの特集をしたいのでサイトを掲載させてほしい」と連絡があった。しかし、サイトはまったく更新しておらず放置状態。・・・全然マニアじゃない。笑

そう、当時の僕はアイスマニアでも何でもなく、ただ普通にアイスが好きな人だったのだ。「これはきっと、やれ(続けろ)ってことだな…」と自分に言い聞かせ、めんどくさがりながらも情報更新を再開。そのうちサイトへの訪問者が増え、検索エンジンでもキーワード「アイス」で1~2位を争うサイトになった。 ⇒「コンビニアイスマニア

アイス評論家を勝手に名乗る

2011年4月。僕は、ちょっとした好奇心と冒険心から1通のプレスリリースを配信した。プレスリリースとは、行政機関や民間企業などから報道機関向けに新商品や新サービスなどを発表する広報手段のひとつ。その、プレスリリースの内容は・・・

「このたび、わたくしアイスマン福留は、日本初のコンビニアイス評論家として本格的に活動を開始します。」…といった内容のもの。「知るかっ!」と我ながらツッコミたくなる痛々しい内容だが、そのリリース情報はネットニュースなどを通じて拡散され、少しだけ話題となった。なかでも寺西ジャジューカさんの記事の反響は大きかった。

テレビやラジオなどから出演依頼が

テレビやラジオの出演依頼の連絡がたくさん来た。日本テレビ「ヒルナンデス」、テレビ朝日「お願いランキング」、TBS「はなまるマーケット」、「マツコの知らない世界」といったバラエティ番組をはじめ、ニュース番組にもアイスの専門家として出演するようになった。また、メディア出演だけではなく、アイスメーカーの研究者との対談企画や、アイス関係のイベントなどにも呼ばれるようになった。

席が”ガラ空き”だったので座っちゃった

今までラーメンの評論家やB級グルメ評論家など、たくさんの評論家が存在したが、国民的人気デザートであるアイスクリームの評論家や専門家的な立ち居地の人は不思議と存在しなかった。

日本では一般的に「謙虚さ」が美徳とされるためか、「おれがおれが!」みたいに前に出ることは嫌われる。そう考えると、みんなが大好きなアイスクリームの評論家を名乗る行為は“おこがましい”を通り越して、とっても図々しくて痛々しい。(しかも自分よりも詳しい人がたくさんいそうだし)しかし、遠慮をしていても何もはじまりません。

責任を埋めるために必死に猛勉強

まぁ、世の中そんな感じなので、アイス評論家を名乗っていて詳しくなければ「おれの方が詳しいよ!わたしの方がアイス好きだし!」と叩かれてしまうでしょう。そう、「コンビニアイス評論家です」と名乗る以上は、世界中の誰よりもアイスについて詳しくなければならない。

勝手に名乗ったその肩書きに恥じぬようアイスの勉強を開始

業界新聞や過去に発売された雑誌などを調べてアイスの歴史を学び、時間の許す限り国立国会図書館や大宅文庫などに通ってアイス関連の記事を漁った。市販のアイスは手当たり次第に食べてレビューを書く。生活の大半の時間をアイスにつぎ込み、食べたアイスのパッケージは収集し(現在数千パッケージ)、アイス関連のニュースは、ほぼすべてに目を通す。歴史年表をつくり、時代背景とアイスの関係性などを紐づけたりと、色んなことを学びました。他にも乳業メーカーの昔の資料を読み漁り、業界新聞数十年分に目を通したりと、ルーツを知れば知るほどおもしろくなる。学業は苦手だったが、40歳手前にして初めて学ぶことの喜びを知った。

自分の好きなアイス以外も食べるのがマニア!

専門家であれば、好きなもの食べたいもの以外も片っ端から食べなければならない。自分の好きなアイスだけを食べるのか、それともそれ以外も食べるのか、これがただのアイス好きとマニアの境界線だと思っています。そう、網羅することでプロとして語れることが増えるのだ。

丸一日、アイスのこと以外はやらない

何にどれだけ時間を注げるかで人生は変わる。朝から晩までアイスのことしかやらない。こんな毎日が何年・何十年も続けば、それは誰よりも詳しくなって当然だ。みんなが働いている間もずっとアイスのことしかやっていないのだから…。とにかく今も、アイスまみれの毎日だ。

趣味?仕事?

一応、僕はアイスの活動は「職業」としてとらえているが正直どっちでもいい。そもそも「お金」や「報酬」といったもののために、わざわざ「仕事」と「遊び」を区切る必要もない。好きなアイスを食べながら楽しく生きていきたい。それだけだ。

まじめに向き合う

ただし、やるからには真剣に向き合う。そうでないとまったくおもしろくない。自分の専門分野で食べていくのであれば、それなりの心構えも必要だ。僕自身、誰も読んでいなくても、例え誰も話題について来れなくても、自分が学習するために丁寧に書く(記録する)ようにしている。たまに世の中の誰も(アイスメーカーの人さえも)が気づいていないであろう情報を発見するとゾクゾクする。

僕にとって、アイスの活動は仕事や趣味を超えた、人生をかけたひとつの暇つぶしプロジェクトになった。お金が発生する・しないは大した問題ではなく「遊び」や「研究」という言葉に限りなく近いかもしれない。あえて何かのカテゴリに当てはまる必要すらないと思っている。

好きなことは仕事にしてはいけない?

「好きなことを仕事にしてしまうと辛いよ!」、「楽しめなくなるよ!」という意見も多い。でも、僕は仕事にすることで嫌いになってしまうのであればそこまで・・・と思っている。だって、プロゴルファーも、プロ野球選手、サッカー選手、ミュージシャンも、俳優も、みんな楽しんでやっていると思う。趣味を仕事に昇華させた分、自分の中で勝手にルールを作り、それをより良くしたり、企画を考えたり、自分を成長させるために努力をしながら楽しんでいるのだと思う。ただもうひとつ、「世の中の多くの人に喜んでもらう」という要素も必要かもしれない。これはあくまでもおまけでいい。自分が楽しむための活動のおまけに、ちょっとだけ「社会への貢献」もついてくるというイメージだ。

趣味・仕事・遊び が融合した人生のプロジェクト

時代が変わり、境界線はなくなりつつある。そのうち「趣味は仕事にしたほうがいい?しないほうがいい?」という論争もなくなるのではないだろうか。

アイスと向き合う

最近思うことは、アイスが「どれだけ好きか」というものさしは、アイスマニアの活動の中では、ひとつの要素に過ぎない。

アイスが好きな人は世の中にたくさんいる。むしろ嫌いな人の方が少ない。だけど、アイスのために人生を投じて一日のほとんどの時間を割いている人はいない。つまり大事なのは「どれだけ真剣にアイスと向き合えるか」なのだ

好きなことだけで自分を埋め尽くす

僕は、大沢誉志幸さんの「そして僕は途方に暮れる」という曲が好きだ。

心地良いメロディーと、情景が浮かぶ世界観がとても好きでよく聴いている。その詩の中にこんなフレーズがある。

「ひとつ残らず君を 悲しませないものを 君の世界のすべてにすればいい」

とくにこの部分が、聴くたびに胸を打つ。このフレーズを聴いてこう思った。「自分の好きなものだけを見るようにする。そして、それだけを自分の世界にしよう」と。

人って元々自分勝手で都合の良い生きものだ。それをちゃんと受け入れて自分の興味のあること以外はあえて無視して生きて行こう。そんな感覚に変わった。自分が興味のあるもの、楽しいと思えること、好きなことだけを抽出して、小さくてもいいからそれを「自分の世界のすべて」にする。

周りから勝手だ、わがままだ、と言われても一度きりの人生、楽しんだもの勝ちだ。無理に視野など広げようとせず、とにかく自分の世界にどっぷりと浸る。他人の評価よりも、自分が納得できるものを最優先し、心地よく生きられる道を歩んでいく。

自分の見たいものだけを見る “究極の自己満足” の世界だ。おそらくこれよりも美しい景色はこの世に存在しない。40歳を過ぎて、そんな考えに至った。他人と競争するのではなく、自分自身でテーマをつくり、それに真剣に向かい合い(挑戦し)自分にしかできない道を歩み、オリジナルの世界観をコツコツとつくりあげることが人生を豊かにしてくれる。僕はそう信じている。

名乗ることからすべてがはじまる、そして名乗り続けることが自分を何者かにしてくれる

現在、アイスクリーム関係の仕事はありがたいことに少しずつ増えている。また、一般向けではなくアイスクリーム業界向けの業界紙でコラムの連載などもさせていただいる。“ふとしたきっかけではじめたことが仕事になる”。インターネットやSNSの普及で、個人の発言力や影響力が高まり、益々 “言ったもん勝ち” の世界へ。何者かになりたい人は遠慮せず、かつ積極的に、時には図々しく進んでいくことが必要だ。

もちろん、べつに“何者かになりたい”とは一ミリも思わないよ…という人もいるでしょう。すべての人に当てはまることではないのは重々承知だ。ただ、自分が生きやすく楽しんでいくために僕は何者かになりたかった。自分の大切なものを守れるように、強くなりたい。気の合う仲間とずっと一緒にいたい。関わってくれた人たちに恩返しもしたいし、これから関わる人の期待にも応えていきたい。本当の自由を手に入れるためには、それに相応する力を持たなければならないと思っている。

僕は好きなことだけをやってわがままに生きるために、“遠慮”を捨てた。つまらない見栄や意地、プライド、そして遠慮を捨てることで、きっと「素の自分」に近づけると思うのです。それがたとえ他の人から歪んで見えたとしても。僕にとって成長とは素の自分に近づくこと。“自然体”でいることこそ最強の生き方だと思っている。

「バカ」になることで、人生は何百倍も楽しくなる・・・のかもしれない。

また、不思議なことに僕の人生に大きな影響を与えてくれた堀江さん(ホリエモン)、そして寺田有希さんがアシスタントをつとめる Q&Aコーナー youtube番組にもちょこちょこ出演させていただきました。(おそらく冬は仕事が少ないことを心配して呼んでくれています。笑)

当時、憧れて自分に大きな影響を与えてくれた堀江さんと、こうして動画で競演できるなんて・・・人生何があるかわかりませんね。

若い人に伝えたいこと

僕のような飽きっぽく無計画な人間が何かの成果を出すためには、どれだけミラクル(奇跡)を起こせるか、まぐれを引けるかだと思っています。今の僕は、まだまだ結果を出しているとは言えないけど、自分の好きな道を歩みはじめ、ようやく軸が定まってきた気がしています。行動する前にあきらめてしまっている人に是非この記事を読んでもらいたい。また、こうして自分の失敗経験を伝えることで読んでくれた人の「行動するきっかけ」になったらとても嬉しい。

最後に

失敗を恐れるあまり、動けなくなるのは本当にもったいない。深く考えずに、自分の理想を追って歩み続ける、倒れたら立ち上がって、また歩く。間違ったら違うやり方を試してみればいい。

ハードルが高くて越えられなかったら地面の土を掘って前進すればいい。

バカがまぐれを起こしやすい時代がやってきました。

僕らを取り巻く環境はどんどん変わっている。今では実現することが難しい夢のようなことも行動すれば、どうにかなることも増えている。

僕はアイスを食べ続け、世界で活躍できるアイス男(アイスマン)を目指します。今年で41歳ですが、アイス評論家としてはまだ若手。(笑)

50歳、60歳、70歳、80歳と、日本のアイス史を深く語れるアイス評論家(アイスの話になると必ず出てくる爺さん)アイスクリーム業界の巨匠を目指します。

どんなミラクルを起こしたいか

アイスのパッケージを集めているので、それを展示できるアイスクリーム博物館も建設したい。アイスクリームイベントを開催したりアイスのプロデュースなんかもしてみたい。(追記 : 両方とも実現しました。)

とにかくアイスに関することで自分にできることは、やり尽くす。逆にアイス以外のことは捨てて今回の人生はそれでお終い。

あなたは何を目指しますか?

どうですか?読んでくれたあなた。僕よりずっと優れているでしょ?(笑)要領の悪い人、落ちこぼれている人にも光り輝ける(最大化される)場所はきっとあります。

ダメ元精神で遠慮なくエネルギッシュに行動しましょう。少しでも多くの打席に立ち、ホームランを狙ってぶんぶんバットを振り回そう。たとえ球にかすらなかったとしても、全力で振り切れば、きっとそれは爽快で楽しい人生!他の人には決して歩めない自分だけのユニークな人生なのだから。

ちなみにホームランバーは1960年に日本ではじめて販売された当たりくじつきアイスクリームバー。(キャラクターのホームラン坊やは現在13代目)

御後がよろしいようで。

Have a ICE day!

  1. 森永製菓 ビストロバニラ

    ビストロバニラ

  2. 赤城乳業 トッピンぎゅ~!

    トッピンぎゅ~!

  3. 小島屋乳業製菓 マックスコーヒーモナカ

    マックスコーヒーモナカ

  4. 赤城乳業 大人なガリガリ君 まる搾り白桃

    大人なガリガリ君 まる搾り白桃

  5. 井村屋 宇治抹茶もち最中アイス

    宇治抹茶もち最中アイス

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